穏やかな一日の終わりに、近くの真間川沿いの桜を見ながら散歩に出た。最近は、3月中に桜が満開になるなど、季節の違和感を感じたりもするが、いざ咲き始めると、そんなことはおかまいなしに、ちょっとした高揚感を感じたりもする。
桜はすでに満開の頃を過ぎ、散りゆく姿を見せ始めていた。「惜春(せきしゅん)」という言葉がある位だから、「惜桜(せきおう)」という言葉があってもいいだろうと、勝手に言葉を創り上げたつもりでいたら、既に色々な所で使われている事を知った。日本人は、昔から「散りゆく桜」というものに、哀愁のようなものを感じるらしい。和歌や俳句などの造詣は、全くと言って良いほど持ち合わせていないが、古人(いにしえびと)の「桜」に対する心の内を確かめてみたくなった。
『花の色は 移りにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに』
ー花(桜)の色は長雨ですっかり色あせてしまった。私が、むなしくぼんやりと重いにふけっているうちに-
不明
『散ればこそ いとど桜はめでたけれ 浮き世になにか 久しかるべき』
-桜は散るからこそ素晴らしい。この憂い多き世の中で、いつまでも変わらずにいられるものはありません-
上田三四(みよじ)
『ちる花は かずかぎりなし ことごとく 光をひきて 谷にゆくかも』
-散っていく花びらは数えきれないほどたくさんで、その一つ一つが光とともに谷に落ちていく-
『から山の 風すさふなり 古さとの 墨田の櫻 今か散るらん』
-乾いた山から風が吹きすさんでいる。故郷の墨田の櫻も今にも散ろうとしているのでしょう-
『散る桜 残る桜も 散る桜』
-散っていく桜も 残っている桜も、すべての桜は散っていきますー
『「暗示、または余情」「いびつさ、ないし不規則性」「簡潔」「ほろび易さ」である。こうした互いに関係する美的概念は、日本人の美的概念の、最も代表的なものをさし示している。 』
ドナルド・キーン著「日本人の美意識」より
「儚きもの」「移りゆくもの」に対する日本人の思いが、その自然観と一致し、「無常」に美意識を感じるようになったのではないかとも言われている。
ただ、それは自らの手からすべり落ちていくような寂寥感や虚無感とは異なるものだ。美しく満ち足りた想いは、いつか時間とともに変わっていくものだからこそ、まっすぐに受け止め、この胸の内にとどめておこうと思う。そして、また来年、この桜咲く時を迎えるまで、そっと忍ばせておきたいと思っている。