行雲流水の如く

-Re-Start From 65 Years Old-

宴のあと

 あれほど多くの人たちにもてはやされ、その艶やかな姿を謳歌していた桜も、今は立ち止まる人も少なく、ひっそりと静まり返っているように見える。まるで、宴の後の一抹の寂しさすら感じさせるようだ。「桜」、特に「ソメイヨシノ」の美しさは、ほんのりとした淡い紅色で、山桜や寒桜とは違う独特な上品さが、貴婦人を想わせる。そして、その散り際の潔さが、また来年への期待を抱かせてくれる。

 あれほど、今を盛りに謳歌していた桜の、今の姿に目を向けてみる。

 そこには、新たな息吹の証でもある新緑の若葉たちが、太陽の光をいっぱいに受けて光合成を始めている姿があった。桜からすれば、花見をして喜んでいるのは人間だけで、そんなことにおかまいなしに、実はちゃっかり生命の営みを続けているのだ。

こんなことを何十年も何百年も続けてきたのだ!

 

 ところで、なぜ人間は、色あざやかな花を「美しい」と思うのだろう?

 ずいぶん前に「なぜ、人は夕焼けを見て美しいと思うのだろう」というテーマで勝手な事を書いたのだが、「美しい」と思う背景というか理由のようなものはあるのだろうか?

 花に色がついているのは、花粉を虫たちに運んでもらうためだというのは、昔学校で習った記憶がある。例えば、モンシロチョウは紫、黄、白い色の花が好きらしく、赤い花には集まりにくいらしい。つまり、色で花を選んでいるようなのだ。

 しかし、それは、言い換えれば、モンシロチョウに花粉を運んでほしい花は、大体紫、黄、白い色をしていると言っても良いのかも知れない。

 では、人間はどうなのだろう。縄文時代の人間にとってクリやドングリ、あるいは豆類などは貴重な食糧であったし、イネの栽培が始まるなど「農耕」が存在していた事は事実である。つまり、生活に欠かせない存在としての植物はあったと思うが、縄文人が「花を愛でたのか?」という質問に対する明確な回答はまだはっきりしていないらしい。しかしながら、イラクのシャニダールという洞窟で発見されたネアンデルタール人の遺体には、花束が供えられていたと考えられている事から、縄文時代に花を供えていた可能性は十分あるのだろう。

 「美しいもの」を美しいと感じる心は、時空を超えて、人類共通のものなのかも知れない。ただし、「美しさ」の基準は人によって大きく異なることも事実である。

 何に対して「美しい」「愛おしい」と思うかは様々だが、どうせならば、身の回りのたくさんの事に、美しさや愛おしさを感じられるようになりたいものだ。

 なぜなら、その瞬間はとても幸せな気持ちになれるから。

工場夕景・川崎』川崎(神奈川県)の旅行記・ブログ by 円蔵さん【フォートラベル】

 かつて、坂口安吾は『「やむべからざる実質」が求めた所の独自の形態が、美を産む。』と言っていたが・・・。(日本文化私観)

<My Favoutite Songs>


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 「かぐや姫」から「風」に進化した伊勢正三の3枚目のシングル。(1976年)

 「花びらが散った後の 桜がとても冷たくされるように」当時25歳の伊勢正三の紡いだ言葉は、今も自分の心に根付いている。