行雲流水の如く

-Re-Start From 65 Years Old-

漂う

f:id:wf160310-6741:20200816220845j:plain

 仕事が終わり、一度家に戻ってから、愛犬の散歩に出かける。

 日中の猛烈な暑さとアスファルトの熱気がまだ残る中、夏の夕暮れが始まる。

 沈みかけた夕焼けの朱色が、暗くなりかけた灰色の雲に混じり、一日がゆっくりと終わろうとしている。

 学生の頃の遠い記憶、今を盛りになくセミの声、ようやく落ち着いてきた生ぬるい空気、明日行く歯医者のこと、先日行ったレストランから見えたレインボーブリッジ、悲しかったこと・嬉しかった事、様々なことが浮かんでは消え、消えては浮かんでくる・・・そう、これはまるで海に浮かんで漂っている感覚と同じだ。

 今日という「今」と、過去から続く「今」と、おそらくこれから続くであろう「今」が、同じ波の上でゆらゆらと揺れている。

 これでいいのかも知れない。

 悔いもせず、あきらめもせず、決して多くを望まず、ただ毎日の「今」を大切にしていくこと・・・そう言えば、このブログの題名は「行雲流水の如く」だったっけ!

 

 


Georgia On My Mind

物語

清水屋(冷やしたぬきそば) : The 仙台生活・・・仙台の情報発信!!

 先日、昼食にそばを食べようと思って、近所の蕎麦屋に立ち寄った。家の近所には2軒ほど蕎麦屋があるが、ここは比較的大衆的だが味が良いと評判の店だ。

 この日は曇り空で、夏にしてはやや涼しさを感じる程だったが、季節を感じたくて「冷やしたぬき」そばを注文し、手近にあった週刊誌に何気なく目を通し始めた。

 その雑誌は、芸能人のゴシップ記事等をよく取り上げる事の多い雑誌である。ぱらぱらとページをめくっていたところ、コメディアンの萩本欣一氏の連載記事が目に止まった。最新号のようなので、詳細は省くがそのテーマが「物語」だったのである。

 「ぼくは、日々の生活や仕事の中で『物語』という言葉を大切にしている。たとえば、人生で大きな決断を迫られた時、あるいは進む道がいくつかあって、どれかを選ばなければいけない時ー。そういう状況に立たされた時、人生を成功に導くために必要なのは、自分を「物語の主人公」だと思う想像力だと信じているからだ。」

 ・・・という書き出しで始まるその記事の中で、そう信じるようになったきっかけは、お母さんの影響があると書いている。「欽ちゃん」のお母さんは、毎年誕生日のプレゼントに「伝記」を買ってくれたそうだ。「本当はおもちゃが欲しかったのに・・」と思ったが、それでも毎年毎年「日吉丸」だの伝記を読んでいるうちに、人生にはたくさんの大変な事があり、そしてそれを乗り越えていくものなんだといった漠然とした思いが育ったそうだ。

 だから、いざという時にも動じることはなかったし、主人公としてどうふるまって行けば良いか考えていたというのである。

 

 今、自分たちはどんな物語を描いてきたのだろうか。そして、それはこれから、どんな展開となってエンディングを迎えていくのだろうか。

 「冷やしたぬき」そばをすすりながら、ふとそんな事を考えていた。

 

 という事で、学生時代によく聴いたこの曲を・・。


主人公 さだまさし

朝の通勤時間

 

f:id:wf160310-6741:20200716220904j:plain

 週4日仕事をしている関係で、勤務のある日は朝7時40分頃家を出る。まず、自転車で駅前の大手スーパーに向かい、そこで昼の弁当を買いこんでから職場に向かうと、大体8時10分位には到着する。時間にして約30分、距離にして約3km程の行程である。

 途中、天気が良い日には、わざと自転車をゆっくりとこいで、街路樹の新緑や庭の花々に目を向けたり、さわやかな風を肌で感じたりする事もあるが、そういう日は決して多くはない。

 

 そう言えば、自分と同じように駅に向かっている多くの人たちは、どんな気持ちで向かっているのだろう。時間に遅れそうなのか、ものすごいスピードで急いでいる人、父親とその息子さんらしい親子は、いつも楽しそうに話しながら向かっている。

 そうかと思うと、自分とは逆方向で、少しうつむき加減で歩いていく中学生とすれ違ったりもする。みなが、それぞれの思いを抱えながら、今日1日のスタートを切ろうとしている。

 

 自分はと言えば、たいがいは、まだ完全に覚醒しきれていない状態で、どんよりした気分で通勤している。別に、何か困った問題を抱えているわけではない。しいて言えばもう少し家でゆっくりした時間を過ごしたかった事くらいである。

 では、どうしていつも朝はこんなに不機嫌なのだろう?

  

 思うに、きっとこれは、長年しみついた一つの習慣なのではないか?

 

 長い人生の中では、少し重い仕事の段取りを考えながら歩いたり、仕事上の事で迷いながら歩いたりしたこともたくさんあった。こういった事を積み重ねていくうちに、「朝は不機嫌なもの」というスイッチが自然に入るようになってしまっているのではないか?

 だとするならば、朝の不機嫌さは、自分の意志で変えられるはずである。

 

 仕事の事も良いけれど、趣味の音楽の事、今夜食べたい物の事、今度の旅行の事、楽しい事ならいくらでもあるはずである。自然の景色や街並みに目を向けるのも、もちろん良い。

 どうせなら、残りの自分の人生、楽しい時間をたくさん増やしたいものだ。

 

前回紹介したMarionetの「南蛮マンドリーノ」をセルフカバーしてみました。


南蛮マンドリーノ(Self Cover)

普通ということ

f:id:wf160310-6741:20200708233003j:plain

ニーチェの言葉

 人生を65年以上も続けていると、自分の見方や感じ方あるいは考え方は、固定化してきているのではないかと思うことがある。朝起きた時、まだぼーっとした頭で「あー、今日は仕事だー」って思った時の感覚、食事をしながら、九州豪雨やコロナのニュースを見ている時に感じたり思ったりする事、朝食の目玉焼きに醤油をかけながら、「そう言えば目玉焼きにソースやマヨネーズをかける人っているよねー。」と呟いたりする事等など。

 誰もが日々の生活の中で、毎日同じように思ったり考えたりするのだろうけど、それぞれの「普通」はみな違っているはずで、その違いがどのようにして生まれてくるのかを考えてみるのは、結構面白い。

 1つは、国や文化の違い。よく「外国人が日本に来て一番驚いたのは・・・」等と言うテレビ番組があるが、生まれた国も文化も違う人たちが、様々な習慣や考え方に違いが生まれるのは当然だろう。ヨーロッパの人たちが多様性を重んじ、自己主張をはっきり行うのに対し、日本人は和を重んじ、一歩下がって協調することを大切にする等がその例だろう。

 2つ目は、男女の違い。学生の時に精神衛生学の授業で、男性と女性の「生きがい」のちがいについての話を、なぜか今も覚えている。その教授によれば、全般に男性は「行きがい」を、女性は「居がい」を求めるものだそうだ。「男性は目的をもって、仲間と肩を組みながら進んでいく「行きがい」を、女性は家族や仲の良い誰かと一緒に居る「居がい」を好む傾向があるというものだったと思う。

 3つ目は、性格ないし血液型の違い。血液型の方は、科学的な根拠はないそうだが、性格の違いがその人の物の見方や考え方に大きく影響していることは、だれもが疑わないだろう。「あの人はB型だから・・」という表現は、かなり市民権を得ていると見て良いだろう。

 4つ目は、生活環境や成育歴の違い。やはり、子どもの頃に見聞きしたことや経験した事は、その人の成長過程に大きな影響を与えているだろう。もちろん、成長と共に変わっていくことはたくさんあるが、自分自身の奥底の方にしっかり根付いているような気がする。自分は、子どもの頃に大きな犬にのしかかられた経験があり、いまだに大きな犬は苦手である。     等々

 

 ただ、そんな中でもはじめは「違い」として、向こう側の存在だったものが、やがて「自分の見方や考え」側に入り込んで来る事もある。そういう時は、概ね自分の見方・考え方の方が化学変化を起こして、その「違い」を受け入れ、A+BがA’’やB’’、あるいはCに変化する瞬間でもある。

 自分にとっての「普通」が、変化していくことは楽しい瞬間でもある。

 

 たまには、こんな曲で異国情緒でも!


Mandolin/Namban Mandolino 南蛮マンドリーノ/Marionette 「大分むぎ焼酎 二階堂」TVCM曲(2015「孤独の風」篇)

半夏生

f:id:wf160310-6741:20200701231918j:plain

奈良 岡田の谷の半夏生

 2020年の7月1日は半夏生(はんげしょう)というそうだ。半夏生という言葉自体は、どこかで聞いた事があるような、ないようなぼんやりした記憶しかないの多少調べてみた。

 半夏生は、夏至から10日目頃を言うそうで、昔から「田植えは夏至の後、半夏生の前までに終わらせる。」という言い伝えがあって、半夏生よりも後になると、秋の収穫量が減ってしまうとされてきたらしい。

 また、半夏生は「物忌みの日」とも言われ、半夏生の5日間は働くことを忌み、天から毒が降るので井戸にふたをし、この日に採った野菜も食べてはいけないと言われていた。これは、田植えで疲れた体を休めるための昔の人の知恵だといわれている。

 半夏生と言う名前は、「半夏(カラスノビシャク)」「ハンゲショウ」という植物から来ているという説もある。(2つは全く異なる植物らしい)

f:id:wf160310-6741:20200701230857j:plain
f:id:wf160310-6741:20200701231626j:plain
半夏(カラスノビシャク)と半夏生

 また、関西地方ではタコを食べる習慣があると言う。「タコは多幸につながる」「タコの足のようにしっかり根付くように」という、いわば縁起物なのだろう。

 こういった、古来言い伝えられて来た伝承には、長年にわたる経験値から生まれてきたものであることはある程度想像がつく。そして、それが伝承として人々の間に言い伝えられるようになるまでには、実に多くの失敗や苦悩が背景にあるのだろう。

 

 古来、古の人々の言葉や歴史には、教えられる事が多い。過去をふり返る事は、今の自分や未来の自分を予見する際の大きなよりどころとなりうる。それは先人からのメッセージとも言えるだろう。もう少し、過去の言葉や歴史に目を向けてみようか。

 ふと、自分の人生の半夏生はいつなのだろうと言う考えが、心をよぎった。

 


*** "Rhythm of the Rain" Lyrics - The Cascades

 

贅沢な時間

f:id:wf160310-6741:20200622204559j:plain

軽井沢雲場池

 都道府県をまたぐ移動自粛要請が解除されたため、早速軽井沢に出かけてきた。軽井沢には、かれこれ30年近く通っている。例年5月のゴールデンウイークを皮切りに、夏から秋にかけて、年3~5回ほど通いつめているのだが、今年はこんな時期になってしまった。

 21日(日)早朝出発。自粛解除ということで渋滞を覚悟していたが、関越道から上信越道は意外に空いていた。10時頃には軽井沢に到着したので、最初にスーパーツルヤでお買い物。ここは、新鮮な地元野菜や果物が比較的安く購入できる事や、食料品以外にも生活用品などが何でも揃うので、観光客にも大変人気のスーパーである。

f:id:wf160310-6741:20200622205328j:plain
f:id:wf160310-6741:20200622205415j:plain

 昼食は、中軽井沢のラベイユというお店で。3年程前に出来たお店で、オーナーは人柄の良さそうなお母様と姉妹で軽井沢でお店をやりたいという夢を叶えたそうだ。

 自分はいつも、ここのローストビーフチャーハンのセットを頼む事が多い。どちらかと言えば家庭的な料理だが、周囲を落ち着いた林に囲まれ、素敵な食器で提供してくれるので、大変気に入っている。

f:id:wf160310-6741:20200622215614j:plain

 午後は、軽井沢アウトレットを散策。孫の洋服でも思ってぶらぶら散歩していたが、この日の気温はなんと16℃まで下がり、おまけに雨が降ってきて、6月とは思えないほど冷え込んできた。長袖シャツに薄手のジャンパーを持参してきたが、それでも冷えるため早めにホテルに入る。

 軽井沢では北軽井沢に泊まる事が多かったのだが、今回は旧軽井沢銀座のすぐ近くのホテルがとれたので、ここに泊まることにした。値段も比較的リーズナブルで、ペットも一緒に泊まれるので、結構人気のあるホテルである。

f:id:wf160310-6741:20200622212807j:plain
f:id:wf160310-6741:20200622212416j:plain

 朝食は、近くのベーカリー&レストラン「沢村」で。なかなかの人気店で、朝の7時から車で来ているお客さんも多かった。

 食後、雲場池まで散歩。雨上がりの軽井沢は、新緑のすがすがしい空気に満ち溢れていた。

f:id:wf160310-6741:20200622213450j:plain
f:id:wf160310-6741:20200622213432j:plain

 月曜日の早朝のせいか人はほとんどおらず、鳥のさえずりだけが聞こえていた。観光地のため、いつもは多くの人が訪れるのだが、こんなに少ないのは珍しい。

 いつも、何かしらに追われるような生活をしているが、本当の贅沢とはこういう事かとあらためて実感した。途中、すれ違った親子連れの外人さんが「オハヨウゴザイマス」と挨拶してくれた。


朝の雲場池

心動いた時に、自分の言葉で!

 

f:id:wf160310-6741:20200613215912j:plain

 ブログの更新が遅れ気味である。

 書くことがなかったわけではないが、書く気にならないというか、ここに載せるほどの事が思い浮かばなかったと言うのが、正直なところである。思えば、このブログを始めて約10ヶ月になる。どんな事を書くかは、別に決まりは設けていないので、ふと思った事や感じた事、あるいはある日の出来事など、何でも良い。書く事でその日の自分を刻んでいくという行為を、大事にしたかったわけだ。

 それでも、文が書けなかったのは、自身の言葉というものを忘れていたような気がする。

 毎週のようにブログを更新していると、書かなければいけないというような、差し迫った感覚にとらわれてくる。そうすると、何かないかとネタ探しのような状態に追い込まれていく。そして、それがさらに進むと、書こうとするネタが先行して、ネタに合わせて文を書き始めるという本末転倒な状態に陥ってくる。

 確かに、そういう書き方もあるので、否定はしないが、心の中に何も思い浮かんでいない状態で書き始めるのはとても苦しくて、どこかで観念的な文章になりやすい。

 それはきっと、頭の中で文を作ろうとしているからなのだろうし、どこか空々しい文章になってしまう。どこかで自分の心が動いていないと、文章を書くのは難しい。

 

 実は、昨日音楽仲間とLINEで話をしていたが、その中でボトルディギングの話が出た。ボトルディギングとは、昭和初期〜大正・明治期等の古いガラス製の空き瓶を拾い集めて、それをクリーニングして眺めて楽しむという、ややマニアックな趣味の事らしいのだが、音楽にも同じような事が言えるのではないかと言うのである。

 ほとんど忘れら去られたような昔の曲の中から、隠れた名曲を発見していくのが楽しいという話だ。友人が言うにはミュージックディギングというのがあっても良いのではないかという。

 これは、とても興味深い話で、実は自分もYouTubeを渡り歩きながら、お気に入りの曲を探すのが好きで、結構以前から行っていた。学生の頃にはやった曲を聞き集めるのも楽しいのだが、初めて聞く曲の中にも結構名曲が埋もれいて、それを発掘(?)した時の喜びは、まさしくボトルディギング(Bottle Digging=ビン掘り)と同じ感激を味わう事が出来る。以前、このブログでメリーホプキンの「サン・エティエンヌの草原」を紹介したが、この曲もこのようにして偶然見つけたものだ。

 恐らく似たような事をしている人は結構いると思うが、まさかこういう楽しみを同じように感じている人がいるという事に、何か新しい価値観を見つけたような軽い興奮を覚えた。

 よし、今日はこの事をブログに書こうと決めた次第である。

 

 今日は、日本のフォークソング好きな友達が見つけた約40年近くも前の曲を紹介します。


六月の雨/究極(1980年)